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歴史
創建当時の資料が存在せず、創建年代は不詳だが、鉄山禅師が活躍していた時期と照らし合わせると、義雲院は四百年~四百五十年の歴史があると考えられる。
毘沙門堂天の由来(山梨名鑑より)
其の祖甲斐源氏義光より出ず。中興姓を中楯と言う。
世々武田氏に仕えたり。宗栄この時、武田軍敗るにあたり、勝頼に従い田野に逃る。勝頼正に自害せんとするや、宗栄を召し其の持する処の毘沙門天を示し、曰く是れ我祖新羅三郎の本尊佛にして、以来我家の重宝、旗、楯無と共に尊敬せしなり。
今之を戦塵し中に埋没せんこと誠に恐懼に堪えず。汝之を奉じ逃れて以って佛寺に附託すべしと言い終えて自害す。
宗栄遺命に従い村に来たり一宇の堂を建立す。之を安置、朝夕奉供怠らざりしと言う。其の甥助右ヱ門性に中字を添え中楯と改む。この時、毘沙門天を大慈山義雲院に奉納す。作は行基の作と言われている。
鉄山宗鈍禅師の略歴
武田信玄の臣、石坂筑後守次包を父として甲府市、古上条に生まれる。
幼少より英知、聡明で、恵林寺快川国師について得度。
その後、静岡臨済寺の大原崇孚、東谷宗杲ら名僧に師事する。
永禄10年 | 東谷禅師(徳川家康の師)より印可状を受く。 |
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元亀元年 | 武田信玄公京都に上洛せんがため、先ず駿河臨済寺(今川家菩提寺)を再興、東谷禅師を上洛させ、妙心寺の住持たらしめ、京都で修行中の鉄山和尚を臨済寺住職になさしめた。 |
元亀2年 | 武田勝頼公より要請されて、生母諏訪御料人の17回忌を 厳修す。 |
天正3年 | 武田家外護のもと大本山妙心寺に入寺、第80世となる。 |
天正4年 | 妙心寺山門造営をなす。 武田信玄公葬儀に際し、快川国師のもと、起骨の導師を務め、法語を詠んでいる。 |
天正7年 | 武田勝頼公の命により戦勝祈願文を伊勢神宮、熊野三所権現に奉納す。 |
天正10年 | 織田軍により恵林寺消失、徳川家康公の命により恵林寺再興に尽力す。 |
天正20年 | 徳川家康公の要請により、武蔵野平林寺(松平信綱公菩提寺)を再興し、自ら中興開山となる。 |
天正21年 | 徳川家康公外護、大檀越として本山再住奉勅入寺す。 |
慶長8年 | 妙心寺を辞し、臨済寺に叢林を創設、後に九州臼枡の稲葉氏に招かれ多福寺に住し、また信州高遠の建福寺にも住した。 |
慶長11年 | 弟子大秀宗智の勧めにより中村一氏公菩提の為に本山頭塔大龍院を創建す。 |
天和3年 | 世寿86歳で遷化す。 |
正徳5年 | 中御門天皇より、霊光佛眼禅師の謚号を追贈される。 |