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伽藍
本堂
- 昭和59年10月に再建
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本尊 千手観世音菩薩(年代不詳)
千手観音とは、仏教信仰の対象である菩薩のうちのひとつ。文字通り、千の手を持つ観音という意味で、千本の手はあらゆる生きとしいけるものを、漏らす事なく救おうという観音菩薩の慈悲の大きさを表していると言われている。
毘沙門堂
毘沙門天の由来
其の祖 甲斐源氏義光より出づ。中興姓を中楯と言う。
世々 武田氏に仕えたり。宗栄この時、武田軍敗るに方り、勝頼に従い田野に逃げる。勝頼自害せんとするや、宗栄を召し其の持する処の毘沙門天を示し曰く 是れ我祖 新羅三郎の本尊佛にして 以来我家の重宝、旗、楯無と共に尊敬せしなり。
今之を戦塵し中に埋没せんこと誠に恐懼に堪えず。汝之を奉じ逃れて以って佛寺に附託すべし と言い終えて自害す。
宗栄遺命に従い、村に来たり 一宇の堂を健立す。之を安置、朝夕奉供怠らざりしと言う。其の甥助右ヱ門性を中楯に改む。
この時、毘沙門天を大慈山義雲院に奇納す。作は行基作と言い伝ふ。
~ 山梨名鑑より(一部抜粋) ~
解説
長篠の戦以後、諸々の戦いに敗れた武田軍は、追われるようにして、天目山南麓の田野の地(現在の山梨県大和村)に辿りつく。その場所で自害目前の勝頼は、武田家家臣のひとりであった宗栄に対し、武田家に代々伝わる『毘沙門天』を佛寺に奉るようにとの命ずる。
その命に従い 宗栄は尼寺光明院廃跡に毘沙門堂を建立し安置し、朝夕供養をかかさなかった。
後に、この毘沙門天を宗栄の甥にあたる中楯助右ヱ門が、義雲院に奇納する。
あらゆる文献で、作は行基作と言い伝えられてはいるが確証はない。
現在の毘沙門堂は、平成14年現住職 宗純代にに再建されたもの。